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木に生るコラム

3.神の顔(2)

 人間の心理には嫌なことは忘れて解決するという仕組みもあるというけれど、この憤怒ばかりは収まりそうもない。あまりに一方的過ぎて、納得できるだけの詳細な事情も分からない。とりあえずは別の人の説明を聞きたくて神宮司庁に電話をしてみることにした。ところがこれがまた、活火山にマグマを送り込むような返答しか返ってこないのである。

 電動車いすで中へ入れてもらえなかったと言うと、内宮ですか外宮ですかと聞き返す。外宮だと言うと、おかしいですね、内宮なら入れますよと言う。内宮での事故が原因だという守衛の話が事実ならば、そんな馬鹿なことがあるはずもない。とにかく入れてもらえなかったのだと言えば、「参拝者で混雑している時は安全のため車いすの方にご遠慮してもらうこともあります」と言う。自分が行ったのは平日の午後で、他の参拝者など少なかったと詰め寄れば、乗っているのはどんな車いすですかと聞き返す。「後ろのタイヤの大きなものですか。タイヤの幅は。前輪は小さいですね。」今度は車いすのせいにするのか?「何日前に行かれましたか。何時ごろでしたか」と、お次は担当の守衛を明らかにしようとする。とにかく「電動車いすを排除する命令」を認めようとせずに、焦点ぼかし、責任逃れに終始するのだ。

 まるで「電動車いすに乗っている人間ならこの程度の言い逃れで片がつく」とも感じられるような応答が続いたが、最後には「後ほどきちんとしたお返事をしますので、お電話番号を教えてください」と折れて出た。ようやく、ただの車いす乗りではないと気付いたか?そして1時間半後、神宮司庁の同じ担当者から電話があった。「内宮で電動車いすでの事故があったため、現在、介助者のいない電動車いすの方は参拝をご遠慮いただいています。いろいろ対応策を考えていますが、人員的な面で対応できないでいます。ご迷惑をおかけしますが、ご了解ください。」なぜこの返答が、最初からできなかったのだろうか。結局、電動車いすは排除されたまま押し切られた。

 人権意識というものは、その時代によって大きく違ってくる。実際、障害者の人権が云々されるようになったのは最近のことで、昭和40年、50年代ぐらいまでの小説やエッセイなどには、そんな意識の欠片もない文章が多く見られる。それを駄目だとは言わないし、日本人は人権意識がもともと低いからと嘆く気持ちも起こらない。それはそれでいいと思う。もともとが個人的な意識の領分だし、そこに踏み込んでまで改めてくださいとお願いする性質のものでもない。しかし、個人的な領分のものであるならば、個人的な領分で解決することは許されていいだろう。

 排除する側にしてみれば、おそらく人権などという意識もないままに、今、盛んに言われるバリアフリーには協力したいが、それに対する人員もなければ金もない。適当な解決策もないから、とりあえずは問題を起こした電動車いすを排除しておこう。すべての車いすを対象にすれば問題も大きくなるし、高齢者用の電動カーも使用者が多いかもしれないから、これらをOKにしておけば問題になるケースは数が限られる。たとえ多少のトラブルがあっても、電動車いすを使っている重度障害者にそれほど問題を大きくする発言力はない。たぶん当事者は、そんな考え方はしていない、妄想だと言うだろうけれど。

 しかし、立場を変えて考えてみるがいい。もし何の落度も間違いもないのに、いきなり誰何された上に行動を制限されたなら、それが親や子であったなら、くやしさ無念さでどのような気持ちになるか、電動車いすの排除を決定した伊勢神宮の人間は想像したことがあるか。そして、この決定を下したのは一人の人間であったとしても、それは伊勢神宮の決定であり、そこに座す神の決定と受け取られることも。そんな決定など知らなかったと言うかもしれないが、知って首肯するのも問題だが、知らずに済ます高位の神職者がいるなら、それはもっと問題だ。

 今日も斎戒沐浴し、みそぎを果たした上で祝詞を神妙な顔で読む神職者がいるかもしれない。しかし、衣の下の醜い鎧を垣間見てしまった者には、それは噴飯物のコントにしか映らない。たしかに神官として高位にあるかもしれないが、この神宮の現実が見えないのであるならば、それまでのあなたの人生は無為だ。存在する人間的価値などない。全面否定されても仕方ないのではないか。そして、そんな行為を神の所作として見せてしまったことは、神の顔を限りなく汚してしまうことではないか。新年にありがたく二礼二拍する一般の人間には神の顔は見えない。あなたたちの顔に神の顔を見る。その顔を、かくも醜くした責任を知らずにいることに気付くことはあるのか。

 あそらく神は死ぬことはない。だが、殺されることがそんなに珍しいことでないことは歴史を見れば分かる。たとえ蟻の一穴であろうとも、伊勢神宮の暗部は確かに口をあけている。

 と、こんな個人的な領分での解決をしてみました。電動車いすに乗る重度障害者であっても、これぐらいの自由な思考は許されると思います。

 2度目の電話の最後に担当者が言った言葉。「これからも伊勢神宮をよろしくお願いします。」もう参拝を全国の友人に勧めることはできないですよ。顔を洗って出直してきてください。

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