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書けなかった日記

3.スポーツの功罪

 冬のスポーツが華やかに語られている。

 オリンピックの喧騒が終われば次はパラリンピック。障害者のスポーツも負けずに華やかさを競うのだろうか。

 よくよく考えてみれば、障害者のスポーツがこんなに語られたり、映像で紹介されたりするようになったのは、そんなに昔のことではなかったような気がする。せいぜいがこの10年で、25年という4分の1世紀前を振り返れば、自分の学生時代には相当なツワモノの障害者でなければスポーツというものを語れなかったと思う。

 それは何もパラリンピックのような「競技」ばかりではない。今では、障害者の団体があれば必ずそこに含まれているとまで言えるような盛況の、車いすバスケットや車いすテニス、車いすサッカーなどの「庶民的」なスポーツでも同じだ。私が小学校低学年の頃、身体障害者施設でやった、あるいはやれたスポーツはゴロ野球ぐらいしかなかった。

 そんなスポーツの盛んになる状況の中で考えてしまうのが、偏った見方であるのは確かなのだが、先天的な障害者と中途障害者の関係だ。よりアクティブにスポーツを楽しんでいるのは、はるかに中途障害者が多いような気がして仕方がない。医学的な見地や体の状況で違うのだから、もちろんそれに善悪をつけることはできないが、配慮が必要なことも確かではないか。

 先天的な身体障害を持つ者が普通学校に通学する場合、体育の時間だけは「見学」することが多かった。おそらく教師の責任と技術の問題もあったのだろうが、できることも、しなくてもよかった。かろうじて、ソフトボールとサッカーぐらいはやっていたような気がする。それでも、中学、高校と進級や卒業はすることができたのだ。

 これが大学となると、少し状況が違ってきた。さすがに単位をもらうためには「見学」しているわけにはいかない。どんな競技でも一応は参加しなければならない。100メートル走に19秒かかろうとも、ボールがバスケットのリングに届かなくても、その試験を受けなければ単位はもらえない。ただ、それはそんな悲壮なことでもなく、偶然、試験がソフトボールとサッカーで、打撃とシュートが決まり、優良可のうちの良をもらうという、本人にとっての「快挙」もあったのだが。

 なんにしても先天的な障害者には、スポーツに消極的にならざるをえない「生育歴」みたいなものがある。そしてもう一つ、障害者ゆえの絶ちがたいジレンマが生まれることもある。たとえば脳性麻痺のアテトーゼには、長年の緊張で首に爆弾が発生しやすい。不要な筋肉の動きで頚椎の軟骨がつぶれ、そのためにずれた骨が脳からの神経を圧迫して、より重度な障害としての全身麻痺を起こし生命に関わることもある。おそらくここでは、スポーツは害でしかないはずなのだ。それでも体を動かしていたいという欲求もある。

 華やかなスポーツ談義の中で、その危険が語られることは少ない。先天的であろうが後天的であろうがスポーツは楽しめればいい、と言い切れるほどに自分達は「障害」を知っていないし、情報も持っていない。もしかしたら、障害が重くなるかもしれないリスクと、体を動かすことの「快感」を常に計る必要があるかもしれないのに。

 しかし、障害者としてのリスクよりも、生き方としての快感を選ぶという選択を好む人間も、確かにここにいる。難しい問題だ。

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